私は昭和38年3月11日に父博史、母道子の長男として岡山市矢坂(今の歯医者の前)で生まれました。

父は地元の新聞社で記者をしていました。母は服飾関係の仕事をしていました。
共働きの家庭とはいえ当時の我が家は裕福な家庭では決してなかったように思います。
しかし父が仕事柄か?本が好きで、私に対しても本を読むように薦めることが多くて、
本だけは私が欲しがるものは全て買ってもらったように覚えています。
その反面とても厳しい父でもあり、「私はスパルタ教育だ!」と当時父は周りによく言っていました。
悪さをすると反省するまで今でも当院の前にある「蔵(くら)」によく閉じ込められたものでした。その当時でも「蔵」は暗くて怖くて古い埃が被っていて奥に魔物が住んでいるような小さな子供にとっては恐怖そのもの空間でした。大きな声で蔵の中で「出して!怖いよー!!」と泣きじゃくったものです
そのときから私は泣き虫になりました。
今でも映画をみても金八先生を見てもすぐに泣きます。

そんな泣き虫だった私も小さな頃はとても体が弱かったようで何度も大きな病気を繰り返しました。何度も何度も病院で注射を繰り返したので、私の両腕はしまいには皮膚が張り付いてしまい、両肩の下の表部分は筋肉が付かないままで大きくなりました。
また体が弱かったためか?食が細かったためか?私は小さいときから虫歯ができやすい子供で、物心ついた頃から病院以外に虫歯の治療に歯医者にもよく通うようになりました。
将来の職業として父は私に特別に指示を出したことはありませんでしたが、私自身は子供心に「医者になりたい」「テレビ局に勤めたい」などと漠然と将来の職業に思いを馳せていました。
一度だけ父親と同じ新聞社に勤めたいと父に言った時は「新聞社は人が多いから大変だ!」と一言呟いたことが今でも記憶に残っています。
その頃から私は心のどこかで歯科医師になることを夢見ていたのかもしれません。

体は丈夫にはなっても歯医者通いはなかなか止まらなかった小学校の6年生のときに
なぜか私は誰もなりたがらない小学校の児童会の会長に立候補しました。
普通は他人から推薦を受けてしぶしぶ立候補する児童会の会長に私は自ら立候補しました。
しかし会長の選挙が行われた結果、私は年が下の5年生の○○君に大差で敗れてしまいました。おそらく病弱で暗かったクラスの人気者では決してない私は人望が無かったのだと思われます。
どこかで私を認めて欲しいと言う思いからたぶん立候補した私は年下の5年生に敗れてしまい「やはり誰からも認められないのかと?」大変傷ついたものでした。
今誰もやりたがらない岡山大学歯学部同窓会の会長をしているのはここに原点があるのかもしれません。